7月7日、夜が明けると、世界が変わっていた。
「熊本県山鹿市で観測史上最大の1時間110ミリの大雨が降りました。河川の氾濫、土砂崩れがすでに起こっている可能性があります」
ふだんはほとんどニュースにもならない地名が、テレビ各局、朝から「山鹿市」を連呼しているではないか。
「えっ、あー、もしかして、ここじゃん」
寝起きのぼんやりした頭で考えていたら、
「昨晩の雨は尋常じゃなかった。やっぱりひどいことになってる」
連れ合いが悲鳴に近い言葉で青ざめている。
思えば、昨日からエリアメールがひっきりなしで、知人から非難するとの連絡を受けていた。もちろん、我が家も避難指示が出ていたのだが、どう考えても、自分の家がもっとも安全だと判断して、とどまることにしたのだ。
大雨の被害は、リアルタイムではわからない。テレビはその後のことを放映するし、地元にいても、たとえ100メートル先のことでさえ、わからない。避難したがいいのか、家にいたほうがいいのか、自分で判断するしかない。
判断材料としては、気象庁の予報と自治体からの知らせ、これまでの経験、そして想像力だろう。今回、多くの人が、「生まれて初めての経験です」と言っていたが、まったくその通り。だとしたら、これまでの経験で判断すると、危ない。そう、あとはもう想像するしかない。「最悪を予想して最善を尽くす」のみ。
この日、我が家の周りでは、がけ崩れがあちこちで発生し、一時はかろうじて「県道」のみが通れる状態だった。線状降水帯がほんの少しだけ、北にずれたので、床下浸水の家もあるし、避難者もたくさんいたが、幸いなことに河川の氾濫は起きなかった。
そして、北にずれたことで、人吉のように線状降水帯がかかり続けた日田市は、とんでもない惨状となった。見慣れた光景、通った温泉地・・・言葉もない。
これまで災害は、本当に馬鹿で申し訳ないわたしだけれど、どこか他人事のような気がしていた。まさかまさか、こんな身近で起こるなんて、考えもしなかった。
そして今回、よくわかったことがある。ひとつは、テレビで見て、「このひともうちょっと何とかならなかったのかしら」と思うことがあるが、それはとても不遜な考えだったということ。もう少し早く逃げていたら助かったのに、なんで見に行くのよ、大雨なのになんで車で行くのよ、など、現場をわからない第三者が勝手にのたまっているだけ(わたしもそうだった)。おそらく、当人は必死なのだ。最善の策だと思って動いている。ただ何もせず、傍観しているひとが安易に言うのは間違っている。
もうひとつは、これは日本中どこにでも起こりうるということ。雨が少ないと言われていた瀬戸内海地方でも大雨に見舞われたし、気候変動でこれまでの常識は通じないことを我が身に感じなくてはならない。テレビで、「ハザードマップを確認してください」と何度も言っていたが、そうしてほしい。危なかったら、何らかの対策を講じておく必要がある。
一説によれば、今回の大雨が首都圏だったなら、多摩川、荒川などが氾濫し、死者は数万人にものぼる、というのだ。
いまは、コロナ禍でもあるが、生命科学者の中村桂子さんは言っている。
「みなさんはコロナと大雨は関係ないと思うかもしれませんが、同じことなのです。人間は自然とどう向き合っていくのかもう一度考えろ、と自然から問われているのです」
徳丸 のり子