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熊本便り 28

ふるさと今も、ホタル舞う

 

 夏至も近いこのころになると、夜7時を過ぎてもまだまだ明るい。横浜と日の入りが40分くらい違うので、びっくりするほどに日が長いのである。

 つい先日、夕食をすませ、まだほんのりと明るさが残る、夜空は群青色の、夜8時前に家を出た。念のため、懐中電灯を持参したけれど(田舎の夜は街灯が少ないので真っ暗なのだ)、使うほどではない。

 我が家は小高い丘の上にある。竹林に囲まれた坂道を下りてゆくと、連れ合いが叫ぶ。

「あ、あそこ、いるいる」

「えーっ、どこよ」

「ほら、ほら」

 目を凝らしてみると、はんなりと光るホタルが1匹、2匹、3匹、・・・暮れなずむ山間に飛び交っているではないか。思いのほか、高さはあり、見上げるほどだ。

「きゃー、すてきー」

 ばかみたいにはしゃいでしまうわたし。何ということはない、ただホタルが飛んでいるだけなのだけれど、子どもみたいにうれしくなってしまう。実際、こうして自然のなかでホタルが飛び交うさまを見るのは何年ぶりだろう、おそらく半世紀くらいにはなる。目的の川岸まではまだあるのに、山の中にさえ、ホタルが飛び交うなんて、新しい発見である。

 川岸に着くと、さらなるホタルの乱舞に浮きたってくる。そして、その光はオスがメスに命を懸けて求愛しているのだと思うと、切なくて、いとおしくて、いのちの不思議を思う。寿命はわずか1年きり。BGMは、川の流れの音と、かまびすしいカエルの鳴き声だ。観客はたったふたり。いつのまにか、空の色が暗さを増している。

 ふいに、幼いころの記憶が蘇る。「ほー、ほー、ホタル来い」と歌いながら、子ども同士でホタル狩りに行っていた。箒のような穂先を持つ、つばなという草でホタルを捕り、虫かごに入れていた。1週間くらいは生きていたような気がするが、いま思えばずいぶんと残酷なことを平気でやっていた。まあ、子どもというものはそういうものだけれど。

 あれから、半世紀。再び、ふるさとの川岸に立つ。中原中也ではないけれど、「ああ、お前はいったい何をしてきたのだと、吹き来る風がわたしに言う」といったところだ。

 そうだなあ、戦ってきたなあ、抗ってきたなあ、としんみり思う。

 何と? 誰と?

 ひとはだれでも、時代という、そして風土(家)という、大きな化け物のなかで生まれ、そのなかで生きてゆくしかないのだけれど、当然のことながら、いつの時代にもどんな地域にも、良い点と良くない点がある。物理的にも精神的にもそのなかにずっといて、外に出ることがなかったら、そのなかの考え方が当たり前のこととして、疑うこともなく、生きるよすがとなり、次の世代に引き継がれ、いつのまにか道徳になり文化になってしまう。

 もちろん、それらのなかには素晴らしいものもあるけれど、そうでないものも存在する。わたしはふるさとを離れたことで、いろんなことが見えてきた。いや、やたらと敏感に感じると言ったほうが確かだろう。ふるさとを離れても、わからないひともいるから(だれとは言いませんけれどね)。

 「正しいことは、大きい、強い、高い、多い」という優性思想、「女は一歩下がって男を立てる」というジェンダーバイアス。わたしたちの時代の、そしてわたしのふるさとの大きな勘違いの論理で、わたしはこれらと戦ってきた。正確に言えば、そういう考えをもった人びととだけれど。

 しかし、再びふるさとの川岸に立って思うのは、そういう人びとだって、時代の、そして風土の「申し子」ともいえるのであって、そのひと個人だけの責任ではないのだから、もっと広い視野でものごとを見なくちゃなあ、と反省しきりなのであった。

            

  

 

徳丸 のり子 

 

《活動ニュース》